残しておきたいことを書いています。

救いのヒーローぶりぶりざえもんについて

 『クレヨンしんちゃん』を子供に観せたくないと考える人々は一定数いる。軽率に尻を出し、女性をナンパする5歳児が主人公の、下品で低俗なアニメだから、というのが大半の理由であると考えている。子をげんこつで躾けるみさえに不快感を覚えるからか、或いはあの作品そのものに面白みを感じないからかもしれない。

 そんな反クレヨンしんちゃん派の人々にとって、ぶりぶりざえもんという存在は、子に観せたくないものの最たる存在かもしれない。SMを好むような描写や、排便後そのまま着用している下着で相手を脅すといった描写のある、下品極まりない半裸のブタは、そういう人々にとっては「最悪」の存在なのかもしれない。

 『クレヨンしんちゃん』を嫌ってる人々の気を変えよう等というつもりは微塵もない。あの下品さを正当化し擁護しようというつもりもない。ただ、救いのヒーローであるぶりぶりざえもんについて、彼のほんの少しの勇士を書きたいと思っている。彼はあくまでもヒーローなのであるということを、ただ綴りたいと思っている。

 

 映画『クレヨンしんちゃん 電撃!ブタのヒヅメ大作戦』(1998年)において、コンピューターウイルスとして登場したぶりぶりざえもんとしんのすけは、お宝山で互いの股間を掴み合い「立派だぞ」、「お前もな」と、くだらない競い合いをする。

 「これからは人助けをしようと思ったのに、もうだめらしい」と、諦めたように静かに語る彼に、しんのすけは狼狽える。彼に真の生い立ちを伝え、使命を伝え、善の心に目覚めた矢先に、彼は消去されていってしまう。

 ウイルスとしての彼を開発した張本人である大袋博士は、彼に申し訳なさを感じ謝罪する。それに対して彼は「いいってことよ、これも人助けだ」と、自身の死を悟っているにもかかわらずそう述べる。「本当は私のちんちんの方が大きかったよな」としんのすけに問い、首を横に振るしんのすけに対して「こういうときは嘘でも『うん』って言うもんだ」と叱咤する。

 「じゃあな」と力強く別れを告げた彼は、粒子のように消えてなくなり、この世界から悪のウイルスとしてのぶりぶりざえもんは居なくなる。

 

 ぶりぶりざえもんを非常に勇敢で優しい存在であるかのように書いたが、これはあくまでも当映画における彼の姿である。他の作中では卑怯で臆病で、「私は常に強い者の味方だ」と言って軽率に敵に寝返る。大した役目も果たしていない、むしろ足を引っ張っただけのような場面においても、法外な「救い両」を請求する意地汚いブタである。

 それでも彼は常に救いのヒーローである。しんのすけが助けを求めれば、アクション仮面やカンタムロボといった「あるべきヒーロー像」のヒーロー達と共に、ぶりぶりざえもんも現れる。役立たずの卑怯なブタであることは周知のこととなっていても尚、しんのすけの求めるヒーローの中に彼は依然加わっている。

 

 何をもってヒーローとするのか、恐らく結論の出ないであろうこの疑問について、少なくともしんのすけは、ぶりぶりざえもんを救いのヒーローだと呼んでいる。常にヒーローらしく振舞う訳でもなく、時には自分本位に行動するヒーローがいても良いのかもしれない。困った時に駆け付け、助ける者だけがヒーローなのではなく、心のどこかで寄り添っている者がいるならば、それはその人にとってはきっと、救いのヒーローなのではないかと思う。

 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード』(2003年)の終盤において、しんのすけは催眠装置である熱海サイ子を使ってぶりぶりざえもんの姿になる。そして「一番大事なこと忘れてた」と言って、あの紫色のズボンの中を覗き見て、「オラのちんちんの勝ち」と満面の笑みを浮かべる。

 これは、5年の歳月を経て、二人の闘いに決着がついた瞬間であり、同時に、しんのすけの中には常に、救いのヒーローぶりぶりざえもんが居ることを描いている場面なのではないかと思う。困ったときに助けてくれる強くてカッコ良い者だけがヒーローなのではなく、困っていないときにも心のどこかに居てくれるカッコ悪いヒーローがいてもよいのではないかと、私は思うのだ。